知る、愉しむ、創る。ホッカイドウ・マガジン「カイ」

カイ│KAI〔WEB版〕




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記録というツール


世界一予約の取れない三ツ星レストラン「エル・ブリ」の舞台裏に迫ったドキュメンタリー映画、「エル・ブリの秘密」を見る(札幌市中央区シアター・キノ)。

シェフのフェラン・アドリアは、客を驚かせるひと皿をひたぶるに求める世界の料理界のトップランナーだ。エル・ブリの営業は年間の半年だけ。残り6カ月は、地球のすみずみから集められた希少なスパイスが並ぶアトリエで、まるでマッドサイエンティストのごとき実験やディスカッションが繰り広げられるのだった(店は2011年夏に閉店)。

フェランの精神は、さながら未知の新奇を求めてアジアや新大陸をめざした大航海時代の探検家たちのものだ。そう考えるとこの希代のシェフの背後に、近代を立ち上げたヨーロッパ文明の現身(うつしみ)が見えてくる。

とりわけ印象に残るのは、ある試作メニューのデータファイルが飛んでしまったひと幕。プリントが残っているから大丈夫だという部下にフェランは、膨大なデータを扱う我々にとって絶対に許されないミスだと、怒鳴り散らす。エル・ブリの創造力を支えるのは、途方もない量の実験記録とその情報処理技術なのだった。

料理史の最高到達点に立ちながら、人間の官能の地平をさらに押し広げて行くためには、去年と同じ料理は決して出さない。エル・ブリは、否定と変化をつねに自前で調達しつづけた。一方で、外から否応なく迫る変化と直面したとき、人は何をなすべきだろう。ここでも「ツールとしての記録」への取り組みが呼び出されることになる。

ハンガリー動乱(1956年)のさなか、ブダペストの芸術大学で教えるひとりの彫刻家は学生たちに言ったという。「いまここで起こっていることのすべてを、君たちは君たちの方法で記録せよ。スケッチで、絵画で、テクストで」。歴史が個人の思いや思惑をはるかに超えて渦巻くとき、できることはまず、その現実の断面を記録することなのだ。そして彫刻家は、当局の目を盗み、ポケットの中でこっそりとスケッチを重ねた。

戦後、日本でも多くの文学者や芸術家が各地で新たな運動を立ち上げた。花田清輝や岡本太郎らが作った「夜の会」を継ぐように生まれたのが、主要メンバーが共通する「記録芸術の会」である。機関誌「季刊現代芸術」(みすず書房)の創刊号(1958年10月)には会の目的が、「現代生活の提起する緊急な課題に芸術という手段をもってこたえること」、「一切の芸術至上主義と一切の大衆追従主義を排して、真の意味の大衆的芸術を産み出すこと」とある。彼らには、文学や演劇、映画、造形、音楽という従来の狭い枠組みを打ち破っていこうとする強い意志があった。

この前衛運動が、自らを「記録芸術の会」と名乗ったことはとても興味深い。それは単に、記録映画や記録文学を意識しただけのことではないだろう(たぶん)。

冬のエゾマツの森が雪の重さや寒気を通して世界と交信しているように、僕たちは時に、記録という方法で世界と交わることができる。カイの編集もそこに繋がるわけだが、それは、大きな物語の磁力をかいくぐりながら北海道を無数の細片に割り刻んでいく、僕らなりの実験であると思いたい。

さっぽろスケッチ散歩原画展


カイで連載している「さっぽろスケッチ散歩」の原画を展示します。この展示会は、スケッチ散歩担当の酒井が参加する札幌の新しい文化塾「SAPPORO ART LABO(略称SALA)」のメンバー11名による合同作品展です。書家、美術評論家、建築家、デザイナー、彫刻家など様々なジャンルの出品者が集うユニークな展覧会になりますので是非足をお運びいただければと思います。

『2012/SAPPORO ART LABO の仲間展』
文化塾[SAPPORO ART LABO;SALA]のメンバーによる作品展

●日時:2012/1/17(火)~22(日)・10:00~19:00(最終日17:00迄)
●会場:ギャラリー・エッセ(札幌市北区北9条西3丁目9-1,ル・ノール北9条1F)
●TEL:011-708-0606
*入場無料
*JR札幌駅北口から徒歩4分、「エル・プラザ」北向かい。
*初日17日(火)・18:00よりオープニング・パーティを開きます。
●出展者:阿部和夫(ドイツ文学)、岡田大岬(書作家)、柏木志保(書家)、上遠野敏(美術家)、木下泰男(建築家)、柴橋伴夫(美術評論家)、澁谷俊彦(美術家)、玉本猛(クリエイティヴデザイナー)、中村一典(美術批評)、原田ミドー(彫刻家)、酒井秀治(まちづくりプランナー)
●企画/サラ・アートインデックス

「大地の侍」。再話の喚起力。


石狩川河口域には、カシワの海岸林が連なる。下草も生えない痩せた土地でも成長できるカシワは、春に若葉が出るまで枯れ葉が落ちないために、雪景色に品の良い枯れ色の筆致を乗せてくれる。特に聚富(しっぷ)から望来(もうらい)にかけて、畑の雪原に映えるカシワの自然林はほんとうに美しい。

昨年末、念願かなって映画「大地の侍」(監督:佐伯清、1956年東映)を見ることができた。当別町ビトエ出身である本庄陸男の代表作「石狩川」を原作に据えた、当別町開基の物語だ。主役は、戊辰戦争で一敗地にまみれた奥羽越列藩同盟に属した、仙台藩岩出山領伊達邦直主従。彼らは1872(明治5)年の春、石狩川河口から16キロほど遡った当別の開墾に取り組むが、先行した旧家臣団の第一陣(52戸181名)は、その前年の春にまずこの聚富に入植したのだった。

しかし一帯は、なにしろカシワの純林が広がるくらいの不毛の砂地。彼らはその地にたどり着くや、不適地をつかまされた怒りに震えた。入植の第二陣を迎えるために、主従はより条件の良い当別の地の払い下げを受けるべく奔走する。彼らは聚富から当別へ、原生林におおわれた丘を越え沢を渡りながら20キロ以上の道路を突貫工事で開削したのだった。映画のクライマックスで繰り広げられるのは、第二陣の開拓団を彼らがこの道を通って迎えるパノラミックなシーンだ。

さて聚富から当別へと開削された道とは、どこにあったのだろう。地図を見ると現在の道道81号がそれに当たると思われるのだが、道ははじめから丘の麓をまわるこの長大なルートに開かれたのだろうか。当別町郷土資料室の東前寛治さんにうかがったところ、そうではなくまず丘越えの最短ルートが選ばれたそうだ。さらに、ルートは当別村史(1938年)と当別町史(1972年)で記述が異なり、地元でもさまざまな論考が交わされてきたこと、そして村史をベースにした特定が有力だがいまだ正式な検証を待っている、という説明とともに、東前さんは複数の詳細なルート図を送ってくださった。

開基の全体像ががきわめて詳細に伝えられる当別にしても、こうしてまだ不明の重大事がある。これは少し驚きだった。その意味でも当別の人々にとって「大地の侍」は、「私たちは何者なのか」という問いにこたえる物語の、源泉のひとつであり続けているのだろう。

かつて人々の運命を根底からくつがえした途方もない出来事があった―。一度しか起こらなかったそれは、過ぎ去ってしまえば文字や映像や口承によって迂回的にしか語り出すことができない。「出来事」は、その対義語にあたる「物語」によってのみ、いまここに前景化させることができるのだ。その出来事ともう絶対に直接交わることができないという現実をめぐって、僕たちは書物や映画と出会う。

宮澤賢治の「かしはばやしの夜」(『注文の多い料理店』)では、カシワを伐ったことのある主人公清作が林を歩くと、カシワたちが露骨に苛立つ。あいだを取り持つのが、赤いトルコ帽をかぶった絵描きだ。賢治は芸術家に、開拓者と林との関わりについて考えさせ行動をうながす、ファシリテーターの役を担わせたのだろうか。

芸術や芸能は、「再話」によって出来事を生きたまま何ものかに移し替えることができる。さまざまな再話の反復によって、表象不可能なものや出来事の存在を浮かびあがらせてみせる。そのことの意味を、もっとよく考えてみなければ。

基敦の写真展


カイの「フォトエッセイ」でおなじみの、富良野在住写真家、基敦氏の写真展が開催される。毎号、カイに掲載される基氏の写真は、いまやカイを構成する重要なコーナーとなっているが、当然ながら、印刷による再現では、基氏の写真の魅力を充分には伝えきれない。写真の持つ表現の可能性を、プリントでの再現を含めたひとつの極限の方向に定め、歩み続ける基敦の写真に触れるには、実物の写真を見ることが不可欠となる。雪の富良野に、「モダニズムの後裔」と題された、展覧会に出かけようではないか。

以下、元コマーシャル・フォト編集長 吉岡達夫氏の寄せたテクストより

 「1930年代、「光画」という写真雑誌が会った。野島康三、中山岩太、飯田幸次郎、木村伊兵衛らの同人が名を連ねていた。風景や静物、人物、スナップなどを対象として、「写実主義」からシュルレアリスムの影響を受けたオブジェ的な「構成主義」の写真まで幅広い作風が混在していた。これらは確かに寿来のピクトリアルな「芸術写真」とは一線を画するものであり、抽象と具象がぶつかりあい、眩しく羽ばたきながら、躍動した。彼らアバンギャルドたちの作品には、知的な高みを帯び、日本的なモダニズムが色濃く漂っていた。

 わずか一年半の短命であった写真雑誌「光画」。その後プツンと糸が切れたかのように「光画」の流れは中断されてしまった。約70数年後の今、孤高の写真家、基敦は彼ら先人たちの思いを再生させたか如く、ここに「光画」の流れを蘇らせたのだ。

 「写真に帰れ」と囁きながら。

基敦写真展−モダニズムの後裔−

期間 2012年1月11日(水)〜1月24日(火)

場所 NATULUX HOTEL 富良野市朝日町1-35(JR富良野駅前)

リトルプレス展から思う、本のこと


紙媒体の元気がないと言われる昨今。しかし今、商業誌ではない、ミニコミ的な小冊子の世界がかなりアツイのです。
小冊子には大きく分けて、定期的に発行される「リトルプレス」と、不定期に発行される「ZINE(ジン)」があります。ZINEは、MAGAZINEが由来とされていて、製本など手作業で行い、凝った装丁や仕様も多いのが特徴です。販売場所は、カフェや雑貨店など書店以外の場所がほとんど。

こうした全国で刊行されている小冊子およびフリーペーパーを一堂に集めた展示・販売が行われました。場所は、小規模店舗が集まるマンション・シャトールレェーヴの307号室。リトルプレスおよびZINEを扱う雑誌専門古本店「トロニカ」主催による、おそらく札幌で、いや北海道で初めての大規模なイベントではないかと思います。
さらに12月17日(土)、リトルプレスをめぐる座談会が開催されました。「トロニカ」広川啓規さんの司会で、古書店「アダノンキ」の石山府子さん、「ブラウンブックスカフェ」の星川洋子さんと、リトルプレス『旅粒(たびつぶ)』を発行している山本曜子さんの4名が、リトルプレスおよびZINE(ジン)について語りました。

(左から広川さん、石山さん、星川さん、山本さん。ケータイで撮った鮮明ではない画像のうえに、ポジション取りが悪くてすみません…。人がいっぱいで動けませんでした)

広川さんによると、こうした小規模な出版物が作られ始めたのは2002年ごろだそう。自分のまわりの地域や暮らしをテーマにした生活系、自分の好きなことを追求したディープ系、クリエイター自身の作品発表の場。リトルプレスはだいたいこの3つの系統があると言います。
リトルプレスの魅力について、石山さんは「装丁から内容まで統一観がある。文庫本よりもズブズブと深い世界観がギュッと濃縮されているのが面白い」と話します。たしかに、挙げられた冊子は独特の世界観を持ったものばかり。そして商業誌とは異なり、「売れる」ということにあまり大きな目的はありません。自分が作ったもので、いかに他者と「つながれる」か。つまり、コミュニケーションツールとしての役割のほうが大きいのです。

札幌発リトルプレスの草分け的存在である『旅粒』は、2004年に原型が作られ、2007年現在のような冊子になりました。ライターでもある山本さんは、デザイナーの友人との、普段の話題や興味の方向をそのまま冊子にしたと言います。同時に、自分の嗜好に合う札幌発の情報誌がないというのも理由のひとつだったようです。
星川さんは、「コーヒーだけをテーマにした冊子を作りたい」というマニアックなこだわりで『ブラウンブック』を創刊しました。編集や校正といったことにはまったくの素人で、最初とても苦労したのだとか。「まだできていないうちに新聞で紹介され、記事を見た人が朝から買いに来て慌てて製本した」という話など会場の笑いを誘いましたが、出版や編集に携わったことがなくても、手探りで手作り感あるものを作り上げることができる(あるいは、そのほうがいい)という、リトルプレスの醍醐味をよく表しているエピソードです。

では、リトルプレスとブログやツイッターなどの電子コミュニケーションツール、あるいは電子書籍との違いはどこにあるのでしょう。
これについて、広川さんが大変興味深い意見を述べていました。「紙は手元に残る。そして記憶に残る。“データは結局自分のものにはならない”と知った人が、紙のおもしろさに気づき始めたのです」
つぶやきさえも“作品”ととらえ、紙に書かれた形に遺し“自分のもの”にしようとする欲望。そして「紙」という物質は、五感(手触り、匂いなど)に訴え、記憶に残っていく。文化人類学者の今福龍太は著書『身体としての書物』で、紙の本に人間と共通する身体性を見出していますが、リトルプレスという形態による、身体性の獲得ともいうべきことが起こっているように思えます。ブラッドベリのSF『華氏451度』での、本が禁止された世界で、ひとりひとりの人間が本を暗記し本そのものになっていたことにも似て、人間と本とが一体化したような、濃厚な親密さが漂っているのを感じたのは私だけでしょうか。

2012年1月20日発売の「カイ」は、特集が「本と、本屋と」です。この日座談会に出演していた石山さんと星川さんにも、「本の有り場」というテーマでお話を伺い、まとめました。ご覧いただければ幸いです。

そして、番外編。
座談会の観客に「ブックスボックス田原書店」田原ヒロアキさんの姿が見えました。9月に札幌地下歩行空間で行われた「ワンデイブックス」のイベントに出店していた古書店です。そのときの写真がこれ。

なんとかわいい装丁!しかも、それぞれの内容に合わせて布を選んでいるようです。ブックカバーをかけるのとはまた違った、自分だけの本を持つ魅力を感じます。フランスでは本の中身だけ買って自分好みに装丁する伝統があり、装丁職人もいます。これを「ユリユール」というようですが、確かに本を買う側にも、もっと自由があっていいのかも、と考えてしまいます。

看板イカ(笑)だそうです。つげ義春の横というのがまたシュールさ倍増。

イケメン店主(!)の田原さん。雑誌「民藝」のバックナンバーも豊富にありました。

●今回登場した、本のある場所(古本店、カフェなど)は、以下でご確認ください。
トロニカ
古本とビール アダノンキ 
ブラウンブックスカフェ
ブックスボックス 田原書店

宮嶋 望 『いのちが教えるメタサイエンス』(地湧社)


共働学舎新得農場(北海道十勝管内)代表である宮嶋望さんの、待望の新刊が出た。前作『みんな、神様をつれてやってきた』(地湧社)が、共働学舎の成り立ちや人間群像を綴ったものだったのに対して、これは科学理論の書。比類なくおいしいチーズを産み出す名物農場の秘密が、いきいきと明かされていく。

「メタサイエンス」とはなにか。宮嶋さんは、「伝説や風習の根拠に光を当てることができる在野の科学」と定義する。

例えばルドルフ・シュタイナー由来のバイオダイナミック農法で用いられる、土壌を浄化活性化させる牛糞調合剤。これは雌牛の角に牛糞を詰めて東向きで畑に埋め、ひと冬越してから取り出して水で薄めてかき混ぜ、畑に散布するというものだ。宮嶋さんからはじめてこの手法のことを聞いたときはオカルトだと思ったが、これには地電流を角にためて牛糞の中の善玉微生物を活性化させ、畑の種菌にする仕組みがある。電子が西から角に流れ込み、角は絶縁体なのでそこで貯まっていく。それが生きた土壌に欠かせない朝陽のエネルギーを引き寄せるアンテナになるのだという。

ほかに、地中の水を動かして環境を劇的に生き返らせる炭埋(たんまい・土中に粉炭を埋める)の効用や、新月の直前に伐採した樹木は腐らず燃えもしないといった、場合によってはトンデモネタとして片づけられてしまいそうな内容がつづく。しかしすべて宮嶋さんが実践してきたことであり、その真偽は、共働学舎製チーズのあのおいしさですでに証明されているともいえるだろう。

宮嶋さんに一貫しているのは、「電子の流れで読み解くと世界はこう見える」というきわめて独自の視座であり、世界認識のオルタナティブなメソッドだ。その根源には太陽エネルギーがあり、さらには、原子から人のからだ、そして宇宙までを壮大に貫く原理への志向がある。大地には微生物や植物、あるいは人間にも共通する、生命現象を活気づけるパワースポットがある。鍵を握るのは電子の流れで、そこでは自然のリズムが無理なく循環している。すべての生き物は、世界にあまねく存在するそうした循環系に繋がりさえすれば幸福でいられるのだ。

大地を宇宙の構図でとらえながらも宮嶋さんは、ひとつの真理を遡及的に求めていく理論家でも還元主義者でもない。そのふるまいはあくまで、いつも現場に立って問題解決にあたる、徹底したプラグマティスト(実務家)のものだ。そして個別の取り組みにはつねに全体性へのコミットがあり、分断された現象を包摂するタフな知性が通っている。

目に見えない電子の流れに認識の調律を合わせながらも、本書には牧草の匂いや北海道の自然への敬意が満ちている。1978年に新得に入植以来、共働学舎新得農場のあゆみは、宮嶋さんの好奇心と思考をいっそう鍛えるレッスンであり続けているのかもしれない。

ニセコパウダーヒストリー発売!


現在のニセコグラン・ヒラフ(北海道倶知安町)にリフトが開業して今年で50年。そして来年2012年は、日本にスキーを伝えた代表的な人物であるオーストリアのレルヒ中佐が倶知安(くっちゃん)町を訪れて百年目。この節目に記念の果実を実らせようと、地元では2年ほど前から歴史の再編纂が進められてきた。そのお手伝いをさせていただいたのだが、このたびそれが一冊の書物、「ニセコパウダーヒストリー」として発売された(表紙や口絵のすばらしい写真は、ヒラフ在住の写真家渡辺洋一さん。ブックデザインは本誌アートディレクター佐藤守功。本誌写真家の露口啓二も参加)。

北海道遺産にも選定されているニセコ連峰のスキーは、リフト開業にいたる長く豊穣な前史によっても、数ある北海道のスキー場のなかで特別な存在となっている。前史の主な登場人物は、レルヒ中佐、北大や小樽高商のスキー部、倶知安中学をはじめとした地域のスキーヤーたち。この裾野があったからこそ、やがて日本が戦後の復興から高度成長へと離陸をとげた時代にニセコアンヌプリにリフトが架けられ、オリンピック選手が育ち、80年代後半からのスキーブームがあった。バブル景気がはじけても、スノーボードやモーグルスキーといった新たなムーブメントが起こり、21世紀にはオーストラリア人たちの「ヒラフ発見」が喧伝された。70年代から80年代、スキー好きが高じて移り住みペンションを開いた世代の子どもたちは、いまソチ冬季五輪(2014年ロシア)をめざしている。

多様な出自をもった人々が遠路渡り来て、渦を起こすように触発し合い学び合い、産業を興しまちを作るー。ヒラフは、北海道の成り立ちの陽の当たる場所を縮図化したような生い立ちをもっている。しかし明治の新開地がニシンや石炭で人々を引き寄せたのに対して、ヒラフの引力源はずいぶんと違っていた。それは、平地の森にいたるまで毎日のように降り積もる、世界にも類い稀なパウダースノーだったのだ。

「山とスキーへの憧れ」。60人以上にインタビューを重ねながら編まれた本書は、このワンテーマを卍巴(まんじともえ)と展開した(往時の文献には降雪にちなむこんなフレーズが見られる)、お手本がなかった風土誌だ。


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