考古学者瀬川拓郎さん(旭川市博物科学館主幹〕の話題の新刊『コロポックルとはだれか―中世の千島列島とアイヌ伝説 』(新典社新書)を読む。
瀬川さんは面食らうかもしれないけれど、読み進むうちに、村上春樹の『東京奇譚集』がしきりに思い起こされた。
本書で瀬川さんは、中世から蝦夷地や樺太などに伝わる「コロポックル伝説」の、大胆にしてロジカルな再検証を試みている。文章はきわめて平易で、しかも心地よくクールだ。
道産子であれば知らない人はいないだろう。コロポックルとは、蕗(フキ)の葉の下にいて、姿を見せないままときどきアイヌと交易をしていたと伝えられる、シャイな小人たちだ。
北海道でコロポックルはアイヌに先駆ける民だった―。いやそれはあくまで説話にすぎない、というコロポックルの実在をめぐる論争は、すでに明治期に決着がついていた。すなわち、コロポックルはあくまで伝説上のキャラクターなのだ、と。21世紀にいたっても、新たな発掘資料や文献はこの結論の再検討を求めるほど現れてはいない。だから今さらコロポックルなど、というのが学界の空気のようだ。
だがしかし、と考古学者はあえて立ち止まる。
瀬川さんは、コロポックルとは北千島アイヌのことではなかったかという仮説を立てながら、歴史の空白に焦点を当てて、今日あたう限りの資料をもってこの小人伝説を再構築していく。
北千島アイヌは、おそらく交易に際して姿を現さず、道東アイヌと声を交わすこともなかったのだろう(沈黙交易)。ゆえに道東アイヌは彼らと交易はしても交流まで至らなかった。情報不足のまま道東アイヌは北千島アイヌを、肌の色も言葉も通じない異人として伝えた。その過程で小人伝説は生まれたのではないか。
つまり小人とは、15世紀に北千島アイヌに進出してラッコ皮の交易に従事していた北千島アイヌがモデルだったのだ。興味深いことに、当のモデルである彼らには、小人伝説が伝わっていなかった。その事実こそが、彼らが小人のモデルであるであったことを物語っているにちがいない、と。
さて瀬川さんのテクストから村上春樹の『東京奇譚集』が想起されたのは、「事実をめぐる立ち位置と語り口」のことを改めて考えさせられたからだ。
『東京奇譚集』は、奇妙な偶然とも見える不思議な現実を主題とした5つの作品からなる短編集だ。作家は最初の作品「偶然の旅人」の冒頭で自ら登場しながら、偶然の出来事が個人に及ぼす意味や無意味について、さらには、意味を宙づりにしたまま事実を受け止めることの倫理的な態度について、読者に注意をうながす。
『コロポックルとはだれか』で瀬川さんは、元来は史実(歴史学)と伝説(エスノロジー)、そして大地の痕跡(考古学)を結んでいるはずのミッシングリンクを、何によって繋ごうとしているのだろう。それは、近代の学問の蓄積の上に「事実をめぐる立ち位置と語り口」のありようを自前で確かめながら、出来事にナラティブ(物語)の形を与えていくふるまいではないだろうか。ナラティブとは、単なる通俗的なフィクションのことではない。言ってみれば世界認識の枠組みのことだ。
それはまた、読者、とりわけ北海道の読み手に対して、土地の歴史や地縁への覚醒を呼びかけるメッセージといえるかもしれない。なんといっても瀬川さんは、学問の枠組みをしなやかに越境しながら、例えば1万年の景観史からこの島(北海道)をとらえ直そうとする人なのだ。
かつて瀬戸大橋から夕暮れの瀬戸内海を望んだとき、自分が生まれ育った北海道と比べてなんと異質な風景だろうと、とても驚いた。
100年以上前、21世紀の道産子のこんな視点とは逆から郷土瀬戸内を再帰的に見いだした男がいた。四国は讃岐の人で札幌農学校に学んだ小西和(かなう)(1873~1947)だ。
美しい図版をふんだんに配した小西の『瀬戸内海論』(1911年)は、作者の北海道での学生生活や、札幌農学校の先輩である志賀重昴(しげたか)の『日本風景論』(1894年)に強く触発されて構想された、瀬戸内海をめぐる地理書にして民俗誌、あるいは緻密な産業経済論にして海洋論。今日ふれても驚くべき密度と駆動力を秘めた瀬戸内海の百科全書だ。
小西は農学校卒業後郷土からの入植者を率いて、現在の岩見沢市栗沢町に農場を開いた。その後東京朝日新聞の記者として日露戦争に従軍し、のちに衆議院議員を務める。議員時代の、北海道旧土人保護法(1899年)に対する孤高の反対でも知られる。
小西や志賀がいう「風景」とは、単なる風土の見えがかり(景観)のことではない。もっと身体的、歴史的、そして博物学的な「世界のとらえ方」であり、さらにそこには人間が土地との長い交わりのなかで醸(かも)してきた精神や霊性までもが含まれるだろう。
彼らには、日本のそうした「風景」を世界文明の中の固有の場所にどう配置するかという、近代国家の立ち上げを担う知識人の野心があった。彼らの発想の基盤に、若き日の「外地・北海道」での体験があったのは興味深い。
志賀重昴や小西和を知的に触発した「辺境」北海道の風景は、一方で近代人が新たに見いだした感傷ともとても相性が良かった。例えば国木田独歩の「空知川の岸辺」(1902年)の名高い一節。
「余は時雨の音の寂しさを知って居る。然し未だ曾て、(北海道の)原始の大森林を忍びやかに過ぎゆく時雨ほど寂しさを感じたことはない」。
そして島木健作の「地方生活」(1941年)にはこんな心象スケッチがある。
「北海道の自然の骨格は全く独特である。流氷を浮かべて死のように黙したオホーツク海に向かって一人立った時、根釧原野の一角に立って遠く近く走る野火を望み見たときの印象を私は忘れることができない。それは荒涼として世にも寂しきものだが、また人の心を永遠なるものに向かって呼び覚まさずにはいれない深さを持っているのである」
この春から、本誌写真家の露口啓二とともに、北海道の風景について考えをめぐらせている(朝日新聞・毎週水曜日夕刊・道内面「石狩川 風景への旅」)。
小西や志賀の論考、あるいは80年代の『日本近代文学の起源』(柄谷行人)や『表象批評宣言』(蓮實重彦)などを呼び戻すまでもなく、「風景」とは、外部世界がただ客観的に視覚野で認識される類いのものではない。それは、個人のまなざしと外部世界の境界域に結ばれる、物語や観念の網の目だ。駆動する近代の当事者であった小西や志賀の風景論の上に僕たちは、いまどんな「風景のトラベローグ」を綴ることができるだろう。
3月6日から5月13日まで、北海道開拓記念館で開催されている「北の土偶~縄文の祈りと心」展へ行ってきました。
国宝に指定された3体の土偶が一堂に会するのは珍しいのだとか。
特に3月6日から18日までは3体とも本物が展示されるとあって、
最初の1週間は1時間近く並んで入るほどの状態だったようです。
私が行ったときは、混雑はしていましたが、スムーズに入ることができました。

中は撮影できないので、入り口なんです。
このあいだ「北海道と北東北の縄文遺跡群」の、世界遺産登録を目指す会が結成されたというニュースもありました。
現在、ユネスコの暫定一覧表に記載されるところまで進んでいますが、さらに推し進めるべく活動が始まっています。
ちなみに、北海道代表の、国宝にもなった「中空土偶」(函館市出身)は、足長さんで日本人離れしたスタイルの持ち主です。
…というか、土偶というものは、そのほとんどが人間離れした外見なんですが。
それはなぜなのか、は、実際に足を運んで確かめてみていただければと思います(逃…)。
なかには思わず笑っちゃうようなかわいいのやへんなのもいます。
私のお気に入りは、根室出身の手のカタチに特徴がある子です。
すごいと思ったのは、土偶じゃありませんが、宮城出身の小さな小さな骨偶です。
本当に細かく丁寧に作られていますので、これから行かれる場合はぜひご確認を。
ホールには、中空土偶の顔だしパネルが置かれていて、自由に記念撮影できます。
グッズも豊富にあり、一筆箋や、土偶のレプリカなんていうのも売られていました。

2階へあがる途中の階段からホールを撮影。
上のほうに顔だしパネルが見えます。
今回撮ってみて初めて、床に葉っぱのような模様がついていたことに気付きました(何度も行ってるはずなのに…)。
4月14日から、今まで複製だったものが本物に入れ替えられるものがあり、
なかには室蘭出身の土偶など、普段本物をあまり見られない土偶もあるそうです。
これから外を出歩くのに、気持ちのよい季節がやってきます。
国宝はもう見たという方も、リピートしてみてはいかがでしょう。
『サービス三流なんて言わせない! 新・北海道流おもてなし』(佐藤あけみ著)が3月23日に北海道新聞社より発売になります。
サービス業での接客、マナーについてはもちろんのこと、イントロダクションに添えられた「北海道に住む私たち一人ひとりが『北海道』という大地をを形成する一部分であり〜〜」、これは本著全体に流れるコンセプトです。様々なコミュニケーションから生まれる可能性を著者の分厚い経験談を通して軽快に示唆しているこの本は、業種に偏らずいまの北海道をいろいろな角度から見せてくれます。

カイ創刊第2号(p32)の中で本誌ライター谷口雅春さんが「青き家郷(パトリ)へ。」と題してこのようなことを記しています。「米村喜男衛や午来昌の行動の原点には、つねに郷土への取り組みと問いかけがあった。その大地は単なる消費や投資の対象ではなく、自分が自分であり続けるために拠って立つ、揺ぎのない場所。ほかのどの土地をもってしても振り替えることができない、世界と自分の関わりの根幹だ。」
佐藤あけみさんのこの著書から「パトリ」とは?とあらためて問いかけられるのです。
この問題作には“ゆるキャラ”が登場して気分を盛り上げてくれます。見事に表現されたのは、ゆるキャライラストレーター・ヨウコングさん、デザインは私、担当させていただきました。ぜひ、みなさま、ご一読を!!
人は大人になって、16歳の自分が書いた日記を虚心に読み返せるだろうか。誰でもいささかの勇気や外連味(けれんみ)を要することに異存はないはずだ。では、16歳の自分が写した写真ならどうだろう。
酒井広司写真展「写真の中の時間―室蘭・母恋・昭和 51年ほか」で迎えてくれるのは、当時高校1年生、16歳の酒井が自分のまち室蘭(北海道)の母恋(ぼこい)を撮った写真群だ。
小高い母恋富士から見下ろす「新日本製鉄室蘭製鉄所」の偉容や「母恋神社の子どものど自慢大会」、祖母や母の日常など、16歳の酒井の心にふれたモノや情景が51歳の酒井によって選びなおされ、そのまま35年後の札幌に移(写)されている。
被写体にていねいなまなざしを向けながらも、酒井少年はまだ、後年の写真家のふるまいを身につけてはいない。そんな自由がそれぞれの作品を、複数の世界観で静かに満たしている。長い時間を一気に渡りながら酒井は、写真という世界認識の体系を一度くぐり抜けることで、時の堆積の中から現在の自分を再帰的に見いだしているのだと思う。
「私」に根ざしながらもすぐれた私小説が内側から外部への回路を伸ばすように、これらの私写真もまた外部への敏感な触手をもっている。いうまでもなく写真は、テクストよりも外部指向性がはるかに強いメディアだ。だからこそ16歳の日記ならぬ16歳の写真は、他人が見ても違和感なく腑に落ちてくる。酒井はそのことを、「人それぞれに写真のどこかを共有してくれるようだ」と言う。湿ったノスタルジーとは別の回路で、酒井の写真は僕たちを他者の記憶や室蘭の70年代の自画像につないでいる。(「酒井広司展」は札幌市中央区・ギャラリー・レタラ。2月20日まで)。
「写真がまとう何ものかの共有」を考えていくと、思考のルートは「写真そのものの共有」にまで至るだろうか。昨年秋に国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)から出版された『マンローコレクション研究―写真・映画・文書を中心に―』は、北海道の写真史にも深く関わるとても重要な一冊だ。
イギリス・スコットランドの医師にして考古学者、人類学者であったニール・ゴードン・マンロー(1863~1942)は、1933(昭和8)年に来道。平取町(沙流郡)の二風谷(にぶたに)で、アイヌ民族への献身的な医療を行った(それ以前は軽井沢サナトリウムの初代院長を務め、堀辰雄の中篇「美しい村」にレエノルズ先生として登場する)。
亡くなるまで9年あまりの二風谷暮らしで、彼は同時にアイヌ民族の研究を進め、民具や儀式などに関する貴重な記録映像を大量に残している。この書物は、イギリスを含め各地に散らばるマンローが収集した写真と映画、そのテキストの総体についての、現在の我々が共有できるきわめて詳細な調査記録だ。
マンローやその先人たちの時代から今日まで、北海道が外部からどのように表象されてきたかという問題群は、僕たちに尽きることのない論点を差し出しつづける。長いあいだにわたって写され語られてきた者たちが、自ら映像や言葉を発しようとするとき、どんな方法がありえるのか。そのとき拠って立つべきは、自分が「いまここ」にいることを巡る、できるだけたくさんの事実や物語であるだろう。北海道の内側から、そしてこの島の枠組みを越えて、見知らぬ他者とそれらを多様なままいかに共有することができるのか―。酒井の写真は、その一手と見ることもできるのではないだろうか。踏みとどまって考えつづけたいのはやはり、写真を写真たらしめる、僕たちの世界の見方の成り立ちそのものだ。

「賦」(ふ)という中国の詩形をめぐる内田樹のエッセイに導かれて、白川静の(むずかしい)『中国の古代文学(二)』をひもとく。
「賦」とは、目の前の風景を詠(うた)うこと。漢代の人々は、たおやかな自然を、そして荒ぶる天地を言葉に移せば、自然の百様をそのまま身体に取り込むことができると考えた。日本の万葉集の国誉めのように、それは価値判断抜きの、あくまで抒事的なふるまいだった。
賦の対極にあるのが、「辞」。これは天に訴え情を抒(の)べる詩形だという。辞と賦は、「辞賦文学」として韻文の中心にあるフォーマットなのだった。
白川は、「賦は物に即して、対象に働きかける文学」だと言う。賦と辞のふたつはともに言葉の呪的な力に拠りながら、「辞は不安と憂愁の文学となり、賦は現実の肯定と讃頌(さんしょう)の文学になる」。
言霊(ことだま)によって福を招き災いを祓(はら)う賦の文学。内田先生は、通俗的な心情を経由しないそうした抒事的なふるまいこそが、つまるところ人の心が醸す「祝福」の原型にほかならないのだ、という。テクストとして書き尽くすことなどできるわけもない自然と向き合うことで、人間は自らの非力をかみしめる。しかしてなおエンドレスに記述を試みる。その無償の饗応こそが自然への言祝(ほ)ぎにほかならないのだ、と。
大地が息づき森がたたずみ水が流れるー。
目の前のひとつの現実を、抒情を通さず「賦の詩形」のように抒亊的に写真に変換していくとき、本誌写真家の露口啓二は、いつも微視的なほどの規矩(きく)で世界と交わる。湿り気を帯びた大地や空気の肌理(きめ)の精度をまさぐるような彼の写真には、発見や感動、納得といった「辞」の形式から解放された、原初の祝福とでも呼びたいほどの心地良さが満ちている。
札幌市が主催する「500m美術館」(地下鉄東西線大通駅・バスセンター前駅間)のオープニング後期展(2月4日~5月6日)に露口は、数年にわたって取り組んできた石狩川水系を主題とした作品群で参加している。現在の豊平川扇状地の先端にあたるこの場所は、19世紀初頭から明治前期まで、札幌北東部の大地を押し広げた伏篭川となるメム(湧水地)だった(それ以前は豊平川本流の流路)。いま露口の石狩川水系の写真は、豊平川と伏篭川という、石狩川に直結する扇状地の地中(地下通路)にあるのだ。
北海道の水の脊柱であり神経網である石狩川水系を、僕たちは今日どのように描くことができるだろう。その途方もない流れに、たとえささやかでも祝福のまなざしを向けることはできるだろうか。情に拠らず、世界を飽くことなくひたすら抒(の)べつづけること—。祝(ほ)き歌は、そんな記録の営みの先にこそ立ち上がるのだと思う。