人は大人になって、16歳の自分が書いた日記を虚心に読み返せるだろうか。誰でもいささかの勇気や外連味(けれんみ)を要することに異存はないはずだ。では、16歳の自分が写した写真ならどうだろう。
酒井広司写真展「写真の中の時間―室蘭・母恋・昭和 51年ほか」で迎えてくれるのは、当時高校1年生、16歳の酒井が自分のまち室蘭(北海道)の母恋(ぼこい)を撮った写真群だ。
小高い母恋富士から見下ろす「新日本製鉄室蘭製鉄所」の偉容や「母恋神社の子どものど自慢大会」、祖母や母の日常など、16歳の酒井の心にふれたモノや情景が51歳の酒井によって選びなおされ、そのまま35年後の札幌に移(写)されている。
被写体にていねいなまなざしを向けながらも、酒井少年はまだ、後年の写真家のふるまいを身につけてはいない。そんな自由がそれぞれの作品を、複数の世界観で静かに満たしている。長い時間を一気に渡りながら酒井は、写真という世界認識の体系を一度くぐり抜けることで、時の堆積の中から現在の自分を再帰的に見いだしているのだと思う。
「私」に根ざしながらもすぐれた私小説が内側から外部への回路を伸ばすように、これらの私写真もまた外部への敏感な触手をもっている。いうまでもなく写真は、テクストよりも外部指向性がはるかに強いメディアだ。だからこそ16歳の日記ならぬ16歳の写真は、他人が見ても違和感なく腑に落ちてくる。酒井はそのことを、「人それぞれに写真のどこかを共有してくれるようだ」と言う。湿ったノスタルジーとは別の回路で、酒井の写真は僕たちを他者の記憶や室蘭の70年代の自画像につないでいる。(「酒井広司展」は札幌市中央区・ギャラリー・レタラ。2月20日まで)。
「写真がまとう何ものかの共有」を考えていくと、思考のルートは「写真そのものの共有」にまで至るだろうか。昨年秋に国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)から出版された『マンローコレクション研究―写真・映画・文書を中心に―』は、北海道の写真史にも深く関わるとても重要な一冊だ。
イギリス・スコットランドの医師にして考古学者、人類学者であったニール・ゴードン・マンロー(1863~1942)は、1933(昭和8)年に来道。平取町(沙流郡)の二風谷(にぶたに)で、アイヌ民族への献身的な医療を行った(それ以前は軽井沢サナトリウムの初代院長を務め、堀辰雄の中篇「美しい村」にレエノルズ先生として登場する)。
亡くなるまで9年あまりの二風谷暮らしで、彼は同時にアイヌ民族の研究を進め、民具や儀式などに関する貴重な記録映像を大量に残している。この書物は、イギリスを含め各地に散らばるマンローが収集した写真と映画、そのテキストの総体についての、現在の我々が共有できるきわめて詳細な調査記録だ。
マンローやその先人たちの時代から今日まで、北海道が外部からどのように表象されてきたかという問題群は、僕たちに尽きることのない論点を差し出しつづける。長いあいだにわたって写され語られてきた者たちが、自ら映像や言葉を発しようとするとき、どんな方法がありえるのか。そのとき拠って立つべきは、自分が「いまここ」にいることを巡る、できるだけたくさんの事実や物語であるだろう。北海道の内側から、そしてこの島の枠組みを越えて、見知らぬ他者とそれらを多様なままいかに共有することができるのか―。酒井の写真は、その一手と見ることもできるのではないだろうか。踏みとどまって考えつづけたいのはやはり、写真を写真たらしめる、僕たちの世界の見方の成り立ちそのものだ。

「賦」(ふ)という中国の詩形をめぐる内田樹のエッセイに導かれて、白川静の(むずかしい)『中国の古代文学(二)』をひもとく。
「賦」とは、目の前の風景を詠(うた)うこと。漢代の人々は、たおやかな自然を、そして荒ぶる天地を言葉に移せば、自然の百様をそのまま身体に取り込むことができると考えた。日本の万葉集の国誉めのように、それは価値判断抜きの、あくまで抒事的なふるまいだった。
賦の対極にあるのが、「辞」。これは天に訴え情を抒(の)べる詩形だという。辞と賦は、「辞賦文学」として韻文の中心にあるフォーマットなのだった。
白川は、「賦は物に即して、対象に働きかける文学」だと言う。賦と辞のふたつはともに言葉の呪的な力に拠りながら、「辞は不安と憂愁の文学となり、賦は現実の肯定と讃頌(さんしょう)の文学になる」。
言霊(ことだま)によって福を招き災いを祓(はら)う賦の文学。内田先生は、通俗的な心情を経由しないそうした抒事的なふるまいこそが、つまるところ人の心が醸す「祝福」の原型にほかならないのだ、という。テクストとして書き尽くすことなどできるわけもない自然と向き合うことで、人間は自らの非力をかみしめる。しかしてなおエンドレスに記述を試みる。その無償の饗応こそが自然への言祝(ほ)ぎにほかならないのだ、と。
大地が息づき森がたたずみ水が流れるー。
目の前のひとつの現実を、抒情を通さず「賦の詩形」のように抒亊的に写真に変換していくとき、本誌写真家の露口啓二は、いつも微視的なほどの規矩(きく)で世界と交わる。湿り気を帯びた大地や空気の肌理(きめ)の精度をまさぐるような彼の写真には、発見や感動、納得といった「辞」の形式から解放された、原初の祝福とでも呼びたいほどの心地良さが満ちている。
札幌市が主催する「500m美術館」(地下鉄東西線大通駅・バスセンター前駅間)のオープニング後期展(2月4日~5月6日)に露口は、数年にわたって取り組んできた石狩川水系を主題とした作品群で参加している。現在の豊平川扇状地の先端にあたるこの場所は、19世紀初頭から明治前期まで、札幌北東部の大地を押し広げた伏篭川となるメム(湧水地)だった(それ以前は豊平川本流の流路)。いま露口の石狩川水系の写真は、豊平川と伏篭川という、石狩川に直結する扇状地の地中(地下通路)にあるのだ。
北海道の水の脊柱であり神経網である石狩川水系を、僕たちは今日どのように描くことができるだろう。その途方もない流れに、たとえささやかでも祝福のまなざしを向けることはできるだろうか。情に拠らず、世界を飽くことなくひたすら抒(の)べつづけること—。祝(ほ)き歌は、そんな記録の営みの先にこそ立ち上がるのだと思う。
世界一予約の取れない三ツ星レストラン「エル・ブリ」の舞台裏に迫ったドキュメンタリー映画、「エル・ブリの秘密」を見る(札幌市中央区シアター・キノ)。
シェフのフェラン・アドリアは、客を驚かせるひと皿をひたぶるに求める世界の料理界のトップランナーだ。エル・ブリの営業は年間の半年だけ。残り6カ月は、地球のすみずみから集められた希少なスパイスが並ぶアトリエで、まるでマッドサイエンティストのごとき実験やディスカッションが繰り広げられるのだった(店は2011年夏に閉店)。
フェランの精神は、さながら未知の新奇を求めてアジアや新大陸をめざした大航海時代の探検家たちのものだ。そう考えるとこの希代のシェフの背後に、近代を立ち上げたヨーロッパ文明の現身(うつしみ)が見えてくる。
とりわけ印象に残るのは、ある試作メニューのデータファイルが飛んでしまったひと幕。プリントが残っているから大丈夫だという部下にフェランは、膨大なデータを扱う我々にとって絶対に許されないミスだと、怒鳴り散らす。エル・ブリの創造力を支えるのは、途方もない量の実験記録とその情報処理技術なのだった。
料理史の最高到達点に立ちながら、人間の官能の地平をさらに押し広げて行くためには、去年と同じ料理は決して出さない。エル・ブリは、否定と変化をつねに自前で調達しつづけた。一方で、外から否応なく迫る変化と直面したとき、人は何をなすべきだろう。ここでも「ツールとしての記録」への取り組みが呼び出されることになる。
ハンガリー動乱(1956年)のさなか、ブダペストの芸術大学で教えるひとりの彫刻家は学生たちに言ったという。「いまここで起こっていることのすべてを、君たちは君たちの方法で記録せよ。スケッチで、絵画で、テクストで」。歴史が個人の思いや思惑をはるかに超えて渦巻くとき、できることはまず、その現実の断面を記録することなのだ。そして彫刻家は、当局の目を盗み、ポケットの中でこっそりとスケッチを重ねた。
戦後、日本でも多くの文学者や芸術家が各地で新たな運動を立ち上げた。花田清輝や岡本太郎らが作った「夜の会」を継ぐように生まれたのが、主要メンバーが共通する「記録芸術の会」である。機関誌「季刊現代芸術」(みすず書房)の創刊号(1958年10月)には会の目的が、「現代生活の提起する緊急な課題に芸術という手段をもってこたえること」、「一切の芸術至上主義と一切の大衆追従主義を排して、真の意味の大衆的芸術を産み出すこと」とある。彼らには、文学や演劇、映画、造形、音楽という従来の狭い枠組みを打ち破っていこうとする強い意志があった。
この前衛運動が、自らを「記録芸術の会」と名乗ったことはとても興味深い。それは単に、記録映画や記録文学を意識しただけのことではないだろう(たぶん)。
冬のエゾマツの森が雪の重さや寒気を通して世界と交信しているように、僕たちは時に、記録という方法で世界と交わることができる。カイの編集もそこに繋がるわけだが、それは、大きな物語の磁力をかいくぐりながら北海道を無数の細片に割り刻んでいく、僕らなりの実験であると思いたい。
カイで連載している「さっぽろスケッチ散歩」の原画を展示します。この展示会は、スケッチ散歩担当の酒井が参加する札幌の新しい文化塾「SAPPORO ART LABO(略称SALA)」のメンバー11名による合同作品展です。書家、美術評論家、建築家、デザイナー、彫刻家など様々なジャンルの出品者が集うユニークな展覧会になりますので是非足をお運びいただければと思います。
『2012/SAPPORO ART LABO の仲間展』
文化塾[SAPPORO ART LABO;SALA]のメンバーによる作品展
●日時:2012/1/17(火)~22(日)・10:00~19:00(最終日17:00迄)
●会場:ギャラリー・エッセ(札幌市北区北9条西3丁目9-1,ル・ノール北9条1F)
●TEL:011-708-0606
*入場無料
*JR札幌駅北口から徒歩4分、「エル・プラザ」北向かい。
*初日17日(火)・18:00よりオープニング・パーティを開きます。
●出展者:阿部和夫(ドイツ文学)、岡田大岬(書作家)、柏木志保(書家)、上遠野敏(美術家)、木下泰男(建築家)、柴橋伴夫(美術評論家)、澁谷俊彦(美術家)、玉本猛(クリエイティヴデザイナー)、中村一典(美術批評)、原田ミドー(彫刻家)、酒井秀治(まちづくりプランナー)
●企画/サラ・アートインデックス
石狩川河口域には、カシワの海岸林が連なる。下草も生えない痩せた土地でも成長できるカシワは、春に若葉が出るまで枯れ葉が落ちないために、雪景色に品の良い枯れ色の筆致を乗せてくれる。特に聚富(しっぷ)から望来(もうらい)にかけて、畑の雪原に映えるカシワの自然林はほんとうに美しい。
昨年末、念願かなって映画「大地の侍」(監督:佐伯清、1956年東映)を見ることができた。当別町ビトエ出身である本庄陸男の代表作「石狩川」を原作に据えた、当別町開基の物語だ。主役は、戊辰戦争で一敗地にまみれた奥羽越列藩同盟に属した、仙台藩岩出山領伊達邦直主従。彼らは1872(明治5)年の春、石狩川河口から16キロほど遡った当別の開墾に取り組むが、先行した旧家臣団の第一陣(52戸181名)は、その前年の春にまずこの聚富に入植したのだった。
しかし一帯は、なにしろカシワの純林が広がるくらいの不毛の砂地。彼らはその地にたどり着くや、不適地をつかまされた怒りに震えた。入植の第二陣を迎えるために、主従はより条件の良い当別の地の払い下げを受けるべく奔走する。彼らは聚富から当別へ、原生林におおわれた丘を越え沢を渡りながら20キロ以上の道路を突貫工事で開削したのだった。映画のクライマックスで繰り広げられるのは、第二陣の開拓団を彼らがこの道を通って迎えるパノラミックなシーンだ。
さて聚富から当別へと開削された道とは、どこにあったのだろう。地図を見ると現在の道道81号がそれに当たると思われるのだが、道ははじめから丘の麓をまわるこの長大なルートに開かれたのだろうか。当別町郷土資料室の東前寛治さんにうかがったところ、そうではなくまず丘越えの最短ルートが選ばれたそうだ。さらに、ルートは当別村史(1938年)と当別町史(1972年)で記述が異なり、地元でもさまざまな論考が交わされてきたこと、そして村史をベースにした特定が有力だがいまだ正式な検証を待っている、という説明とともに、東前さんは複数の詳細なルート図を送ってくださった。
開基の全体像ががきわめて詳細に伝えられる当別にしても、こうしてまだ不明の重大事がある。これは少し驚きだった。その意味でも当別の人々にとって「大地の侍」は、「私たちは何者なのか」という問いにこたえる物語の、源泉のひとつであり続けているのだろう。
かつて人々の運命を根底からくつがえした途方もない出来事があった―。一度しか起こらなかったそれは、過ぎ去ってしまえば文字や映像や口承によって迂回的にしか語り出すことができない。「出来事」は、その対義語にあたる「物語」によってのみ、いまここに前景化させることができるのだ。その出来事ともう絶対に直接交わることができないという現実をめぐって、僕たちは書物や映画と出会う。
宮澤賢治の「かしはばやしの夜」(『注文の多い料理店』)では、カシワを伐ったことのある主人公清作が林を歩くと、カシワたちが露骨に苛立つ。あいだを取り持つのが、赤いトルコ帽をかぶった絵描きだ。賢治は芸術家に、開拓者と林との関わりについて考えさせ行動をうながす、ファシリテーターの役を担わせたのだろうか。
芸術や芸能は、「再話」によって出来事を生きたまま何ものかに移し替えることができる。さまざまな再話の反復によって、表象不可能なものや出来事の存在を浮かびあがらせてみせる。そのことの意味を、もっとよく考えてみなければ。
カイの「フォトエッセイ」でおなじみの、富良野在住写真家、基敦氏の写真展が開催される。毎号、カイに掲載される基氏の写真は、いまやカイを構成する重要なコーナーとなっているが、当然ながら、印刷による再現では、基氏の写真の魅力を充分には伝えきれない。写真の持つ表現の可能性を、プリントでの再現を含めたひとつの極限の方向に定め、歩み続ける基敦の写真に触れるには、実物の写真を見ることが不可欠となる。雪の富良野に、「モダニズムの後裔」と題された、展覧会に出かけようではないか。
以下、元コマーシャル・フォト編集長 吉岡達夫氏の寄せたテクストより
「1930年代、「光画」という写真雑誌が会った。野島康三、中山岩太、飯田幸次郎、木村伊兵衛らの同人が名を連ねていた。風景や静物、人物、スナップなどを対象として、「写実主義」からシュルレアリスムの影響を受けたオブジェ的な「構成主義」の写真まで幅広い作風が混在していた。これらは確かに寿来のピクトリアルな「芸術写真」とは一線を画するものであり、抽象と具象がぶつかりあい、眩しく羽ばたきながら、躍動した。彼らアバンギャルドたちの作品には、知的な高みを帯び、日本的なモダニズムが色濃く漂っていた。
わずか一年半の短命であった写真雑誌「光画」。その後プツンと糸が切れたかのように「光画」の流れは中断されてしまった。約70数年後の今、孤高の写真家、基敦は彼ら先人たちの思いを再生させたか如く、ここに「光画」の流れを蘇らせたのだ。
「写真に帰れ」と囁きながら。
基敦写真展−モダニズムの後裔−
期間 2012年1月11日(水)〜1月24日(火)
場所 NATULUX HOTEL 富良野市朝日町1-35(JR富良野駅前)